日本初の鉄道は1872(明治5)年10月14日に新橋~横浜間で開業し、当初はイギリスから輸入された蒸気機関車が列車をけん引しました。それからしばらくは蒸気機関車を欧米から輸入していましたが、明治中期からのトライアルを経て大正時代には9600形で本格的な国産化が実現するに至りました。戦前の段階では電気・ディーゼル動力の車両はごく一部に限られ、蒸気機関車は花形として君臨し、技術の進歩による高性能化も続きました。
第二次大戦直後には国鉄(当時は運輸省鉄道総局)の蒸気機関車の数がピークとなり、約6,000両が在籍していました。その直後、1948(昭和23)年に蒸気機関車の新製が終了し、以後は段階的に電気やディーゼル動力の車両と交代することとなります。ちなみに、日本国有鉄道が発足したのは1949(昭和24)年6月のことです。
1959(昭和34)年には動力近代化計画が策定され、蒸気機関車を1975(昭和50)年までにすべて置き換えるという具体的な目標が決まりました。蒸気機関車の置き換えは幹線や都市圏を優先するのを基本としつつ、地域ごとの事情に合わせて進行。四国はディーゼル車両導入のモデル地区となり、蒸気機関車の運用が1970(昭和45)年3月に終了しました。本州では1975(昭和50)年1月、九州では同年3月が運用ラストとなり、現役の蒸気機関車は北海道に残るのみとなりました。
1975(昭和50)年3月時点では、北海道のうち道北、道東、道央のエリア、11の機関区に現役蒸気機関車の配置がありましたが、動力近代化計画の仕上げに向けたディーゼル機関車の増備により、勢力縮小が進みました。同年12月初頭時点では道央の岩見沢第一と追分、滝川の3つの機関区だけの配置で、活躍の舞台として残っていたのは室蘭本線室蘭~岩見沢と夕張線、根室本線滝川~芦別の3路線のみです。うち滝川所属機による根室本線の運用は12月8日にラストランを迎え、残ったのはいよいよ室蘭本線と夕張線だけになってしまいました。
そして、室蘭本線の蒸気機関車置き換えが完了するのに際し、12月14日に「さようならSL」列車を運転することになりました。そのけん引機に抜擢されたのが、岩見沢第一機関区配置のC57形135号機です。
C57形は旅客用蒸気機関車を代表する形式のひとつで、1937(昭和12)年から1947(昭和22)年までに201両が落成しました。直径1,750mmの大きなボックス動輪と細いボイラーによる、近代的かつスマートな外観スタイルがファンの間で人気となり、「貴婦人」というニックネームもあります。また、増備の過程で設計変更があり、一次型~四次型に分類されます。
室蘭本線の「さようならSL」牽引機となった135号機は1940(昭和15)年5月に三菱重工業神戸造船所で落成し、一次型に属します。最初は関東の高崎機関区に配置されて高崎線などの運用に就き、1952(昭和27)年に北海道の小樽築港機関区に転属しました。そこでは函館本線や根室本線の旅客列車を受け持ちます。そして、1968(昭和43)年10月に室蘭機関区、翌年に岩見沢第一機関区と転じ、この2箇所での配置の間は室蘭本線の旅客列車をけん引しました。
このような経歴を持つ135号機は、北海道入りしてから乗務員の寒さ対策で運転室を密閉式にするなど、耐寒耐雪装備追加の改造を受けました。さらに小樽築港機関区時代に根室本線の狩勝峠旧線経由で釧路までロングランする運用があり、その対応で重油併燃式に改造されています。重油タンクの搭載位置は、ボイラー上のドーム後方です。また、函館本線の一部が交流電化された際は、前照灯の脇にシールドビームの予備灯が設置されています。これは高圧の架線下で前照灯の電球が切れた際の交換作業を省略するためです。根室本線の運用から離れたのち、使わなくなった重油タンクが撤去されるのですが、タンクを避けて後端を垂直にカットしたドームはそのままでした。
1973(昭和48)年頃にはデフレクター(除煙板)の前方が切り詰められてフロントビューの印象が変化しました。これは、積雪時の構内入換えの際、係員がデッキに安全に立てるようにした改造です。また、135号機は一次型で、もともとのテンダー台車は鋳鋼製なのですが、末期はテンダー台車が板台枠になっていました。これについての経緯は定かではありませんが、同じ岩見沢第一機関区配置で1974(昭和49)年5月に廃車になった二次型の149号機のテンダーと振り替えられたという可能性があります。
国鉄の蒸気機関車全廃が間近になった1975(昭和50)年秋、室蘭本線室蘭~岩見沢間では旅客および貨物列車の大半が依然として蒸気機関車牽引で、旅客列車はC57形を主体に一部がD51形、貨物列車がD51形という分担でした。しかし、DD51形ディーゼル機関車が増備され、12月に入るとこの路線の蒸気機関車は、貨物列車用としてD51形が残るのみとなります。
蒸気機関車の定期旅客運用は国鉄線上から消滅していたのですが、室蘭本線からの蒸気機関車全面引退に際し、功績を称えるべく12月14日に客車による「SLさようなら」列車を運転することになります。その列車は臨時の設定ではなく、室蘭発7時50分、岩見沢着11時42分、運転距離140.8kmの定期225列車としました。DD51形に置き換えられる前はD51牽引だった列車ですが、記念すべき最終運転なので、旅客用でファンの間で人気が高いC57形を先頭に立たせることになったのです。
当時、岩見沢第一機関区には現役最後のC57形、38・44・57・135・144号機の5両が配置されていました。そのうち135号機が栄えあるラストランに起用されるのですが、同年11月にテレビで放送された室蘭本線の紀行番組に登場して有名になり、そのこともけん引機選定に影響したのでしょう。
すでに運用から外れていたC57形135機なので、「さようならSL」列車牽引の前日となる12月13日に岩見沢から室蘭まで回送することになります。その際、ファンへのサービスの意味も込め、DD51形がけん引する午後の旅客列車の前位に連結。最後の晴れ舞台のため135号機は磨き上げられたうえ、ランボードに白線が入って美しい姿になっていました。室蘭に到着し、翌朝までかつての配置先であった室蘭機関区に駐泊している間に、フロントデッキに「さよならSL」のヘッドマークが装着されました。
通常の225列車は客車5両ですが、12月14日は「SLさようなら」列車として特別に8両編成になりました。まだ50系51形が配置される前で、旧型客車のスハ32系、オハ35系、オハ62系が混在した編成が組まれ、全車自由席の定期普通列車ということもあって最後の「汽車旅」をしようという人たちが13日の夜から始発の室蘭駅に集まりました。
12月14日、夜が明けて7時半を過ぎたところでC57形135号機は室蘭機関区から出区し、転線のうえ室蘭駅2番線に停車している225列車の編成に連結されました。そして、ホームで出発式が執り行われ、国鉄の楽団による演奏で「蛍の光」が流れる中、汽笛一声、「さようならSL」列車が出発しました。
乗客は約2,000人と、8両編成の定員の3倍に迫り、車内は首都圏のラッシュ時並みに混雑していました。また、乗車に時間を要したうえに乗り切れない人がホームに残され、発車は定刻より8分遅れの7時58分でした。
雪が降る中で走り始めた「さようならSL」列車は、駅に停車するたびに激しい混雑のため遅延が膨らみます。しかし、一度駅から発車すると、通常運転時より長く超満員で重くなった編成を従えたC57形135号機は力強く走り、今日限りで引退とは思えない頼もしさを見せました。沿線には多くの人たちが並んで写真撮影や録音をし、室蘭本線と並行する道路は列車を追いかけるファンの自動車で大渋滞という、史上空前の大フィーバーになりました。
盛り上がったのは現場だけではありません。テレビでは朝から夜までニュース番組のたびに、力走するC57形135号機の姿が映し出され、蒸気機関車が最後を迎えたことを伝えていました。
「さようならSL」列車の運転途中に雪が止み、鉄道開業から103年におよんだ蒸気機関車のフィナーレを飾るのにふさわしく、明るい日が差してきました。終点の岩見沢駅でも多くの人々に迎えられ、定刻より1時間14分遅れの12時56分に到着しました。
その10日後、12月24日には蒸気機関車牽引の貨物列車が夕張線で最後を迎えます。以後は追分駅構内入換え用の9600形が残って翌年3月2日まで稼働し、国鉄の現役蒸気機関車はすべて運用から撤退しました。
「さようならSL」列車を牽引したC57形135号機は休車を経て1976(昭和51)年3月31日付けで廃車となり、4月になって貨物列車の機関車次位への連結と青函連絡船の航送で、東京都内の田端操車場まで回送されました。そして、同年5月から当時神田にあった交通博物館で展示され、2007(平成19)年10月からは、さいたま市の鉄道博物館において展示車両の中心的存在となっています。
こうして、C57形135号機は現役初期の高崎機関区時代に高崎線の運用で何度も通った大宮に安住の地を得たのです。
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